「市川房枝」ってどんな人?女性参政権、女性の地位向上に尽くした彼女の生い立ちと功績

「市川房枝」ってどんな人?女性参政権、女性の地位向上に尽くした彼女の生い立ちと功績

現在、性別関係なく、誰もが当たり前のように持っている選挙権。しかし、それが「当たり前」になったのは、戦後55年も過ぎてからだったのはご存知でしょうか。

それまで、男性にのみ与えられていた選挙権という権利を、女性にも行使できるように尽力したのが「市川房枝」という女性でした。

本記事では、女性政治家のパイオニアであった彼女の生い立ちと功績を振り返ります。

市川房枝の生い立ち

女性解放、女性参政権運動に尽力し、活躍した市川房枝。その活動の原点は、彼女が生まれ育った家庭環境にありました。

原点となった母の嘆き

市川房枝がこの世に生を受けたのは、1893年(明治26年)5月15日です。
愛知県にて、農業を営む父・藤久郎と、優しい母・たつのもとに生まれました。

藤久郎は、子供には優しく教育熱心ではありましたが、妻のたつには日常的に暴力を振るうなど、厳しく当たっていました。たつは房枝に「女に生まれたのが因果」と語り、必死に耐えるばかりでした。

房枝は父親に耐え忍ぶ母の姿を見て、なぜ女性は耐えなければならないのか、なぜ女性だからといって男性に従わなければならないのか、その理不尽さに疑問を抱くようになります。この幼少期の経験が、彼女の活動の原点となりました。

成長し、学校を卒業してからは、小学校教員として働くようになります。

そこで、当時行われていた「良妻賢母教育」に反対し、同僚の教員と授業をボイコットするなど、後の婦人運動家としての活躍の片鱗を見せています。

平塚らいてうとの出会い

その後、房枝は新聞記者になりましたがすぐに仕事を辞め上京、そこで女性解放運動家、平塚らいてうと運命の出会いを果たします。1919年のことでした。

平塚らいてうは、日本初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を刊行(創刊号の巻頭に寄せた「元始、女性は実に太陽であった」という言葉も非常に有名です)した女性です。らいてうは当時の女性解放運動をリードする存在でした。

らいてうと意気投合した房枝は、彼女を助け日本初の婦人団体「新婦人協会」の設立に協力。共に女性解放を目指して活動するようになります。

この活動の結果、治安警察法を改正し女性が政治集会に参加できるようになるなど、いくつかの成果を残しました。しかしこのときは、女性が参政権を得るまでには至りませんでした。

その後、運動にのめり込む房枝と、家庭を持ちながら活動するらいてうの間に、価値観や活動スタイルの違いから溝ができるようになりました。やがて房枝は協会の理事を辞し、渡米します。

アリス・ポールとの出会い

1921年に渡米した房枝は、ベビーシッターやハウスキーパーとして働きながら、アメリカ各地の婦人運動や労働運動に触れます。

その中で、全米婦人党のリーダー、アリス・ポールと出会いました。彼女は房枝に対し「女性は女性の問題に専念するべき」「色々なことを同時にしてはいけない」と叱咤激励します。

この出会いがきっかけとなり、房枝は女性参政権運動に専念することを決意しました。そして1924年に帰国します。

女性参政権獲得

帰国後、房枝は新たに結成された「婦人参政権獲得期成同盟会」の書記長に就任します。

しかし時代は戦争という困難な状況を迎えており、言論弾圧も厳しくなりつつありました。

そんな状況でも房枝は、終戦からわずか10日後には「戦後対策婦人委員会」を組織、さらに1945年11月3日には、戦後対策婦人委員会を母体に、戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」を結成し、会長に就任。粘り強く女性参政権を国に要求し続けます。

そして1945年12月17日、法律が改正され、ついに悲願であった女性参政権(男女普通選挙)が認められるようになりました。房枝たちの活動の成果が、ついに実を結んだのです。

翌1946年には、早速この新選挙法のもと衆議院選挙が行われ、39人の女性議員が誕生しています。

その後の活躍

女性参政権獲得後も、房枝はさらなる女性の権利向上の推進、平和活動や汚職政治の撲滅に尽力し続け、参議院議員としても通算5期25年務め上げました。

選挙運動では「出たい人より出したい人を」をスローガンに、有権者の立場に立った「理想選挙」を掲げて実行します。1980年の参議院選挙では87才という高齢にもかかわらず、全国トップの票を獲得し、当選を果たしました。

房枝は1981年に心筋梗塞のため亡くなります。

女性政治家のパイオニアとして、女性の地位向上に捧げた87歳の生涯でした。

菅直人氏との縁

その発信力や行動力、功績により、房枝は多くの人に影響を与えました。彼女に影響を受けた人物の中でも特に有名なのは、元総理大臣でもある政治家・菅直人氏です。菅氏は、房枝の選挙事務長を務めました。

1971年の参議院選挙で落選した房枝は引退を決意していましたが、1974年の参議院選挙に再び立候補、そして当選しています。この立候補の後押しをしたのが、当時27歳の菅氏でした。

この時選挙事務長を務めたことが、菅氏のその後の政界入りにつながっています。

まとめ

本記事では、女性参政権実現、女性の地位向上のために尽力した市川房枝について紹介しました。

女性参政権運動に尽力した市川房枝は、婦人活動のリーダーとして、生涯を通して女性の地位や権利の向上のために活動しました。

元総理大臣・菅直人氏とも縁があるなど、多くの人に影響を与えた女性です。

彼女の活躍を知り、容易ではなかった女性参政権獲得までの道のりをたどることで、日本におけるジェンダー平等推進、そして選挙を通じて自らの意志を表明することの大切さが理解できるのではないでしょうか。

 

<参考>
れきし上の人物.com :5分で市川房枝について!人物エピソードややったこと
青森県弘前市民参画センターコラム
「平塚らいてうの会」会報誌
コスモポリタン: 1票の重みを感じる!市川房枝の「女性参政権」実現までの闘い
ブログ:「平塚らいてうと市川房枝」(シリーズ 「日本人は何を考えてきたのか」(NHK)  第12回より)
青森県弘前市民参画センターコラム
ピースあいちコラム:「権利の上に眠るな」市川房枝生誕120年記念特別展に学ぶ
議員NAVI: シリーズ女性と議会「権利の上に眠るな~今振り返る市川房枝の取組とその現代的意義~」
市川房枝記念会女性と政治センター:「市川房枝ってどんな人なの?」
共同通信:<あのころ>市川房枝さん参院復帰へ

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