55年体制とは?発足から崩壊の歴史をわかりやすく解説

55年体制とは?発足から崩壊の歴史をわかりやすく解説

1955年、日本民主党と自由党の「保守合同」により、自由民主党(自民党)が結成されました。また、左派と右派に分裂していた日本社会党が再統一されました。

保守系の自民党と革新系の社会党が対立したこの構図が「55年体制」です。自民党が過半数の議席を占めて単独政権を担い、約40年間にわたり一党優位制が続きました。

55年体制は、1993年に非自民連立政権である細川護煕内閣が発足したことで終わりを迎えます。

本記事では、55年体制の発足から崩壊の経緯や政治の動きをまとめました。

55年体制とは

1955年、保守系の政党である日本民主党自由党が合同し、自由民主党(自民党)が発足しました。また、革新系の政党である日本社会党は左派と右派に分かれていましたが、同年再統一します。

その後1993年まで続いたこの保守政党と革新政党が対立する構図を、発足した年号を取って「55年体制」と呼びます。

55年体制下では自民党が議席の過半数を占め、一党支配で政権を担い続けたことが特徴です。

終戦直後の政治情勢

55年体制の発足に至るまでの経緯は、どのようなものだったのでしょうか。

第二次世界大戦が終結した1945年以降、政治が自由化する中で多数の政党が創設・再建されました。

当時主流となった政党は、日本自由党・日本進歩党・日本協同党・日本社会党・日本共産党などがあります。

そのうち自由党・進歩党・協同党は合流や改称を繰り返し、1950年代には自由党日本民主党の2大勢力となりました。憲法改正に積極的な姿勢を持ち、「保守勢力」と呼ばれます。

一方で、1945年に結成された日本社会党(社会党)は、1947年に片山哲委員長を首相とする日本社会党・民主党・国民協同党の連立内閣を樹立しました。

社会党は憲法改正に反対し、非武装中立などの立場を取る「革新勢力」です。1951年のサンフランシスコ平和条約締結を巡り、右派と左派に分裂しました。

日本社会党(社会党)発足の経緯

1955年当時の鳩山一郎内閣(日本民主党)は、憲法改正を進めようとしていました。

2月の衆議院総選挙で、右派と左派に分かれていた日本社会党は合計で156議席を獲得します。憲法改正の発議を阻止するために必要な「定数の3分の1」を超えることとなり、党は再統一されました。

憲法改正の手続きや現在の論点については、以下の記事を参考にしてください。
憲法改正とは?手続きや論点をわかりやすく解説

保守合同による自由民主党(自民党)発足の経緯

日本社会党が衆院選で躍進した後の1955年5月、自由党総裁の緒方竹虎氏と日本民主党総裁で当時首相だった鳩山一郎氏が、党首会談において「保守勢力を結集し、政局を安定させる」という意見で一致します。そして、同年11月に自由民主党が誕生しました。

保守系の2党が合流したこの結党を「保守合同」といいます。

結党当初は鳩山氏・緒方氏・大野伴睦氏・三木武吉氏の4人が総裁代行に就きました。衆議院議員は298人となり、衆議院の定数467人(当時)のうち約3分の2を占めることとなりました。

「1と2分の1政党制」とは

55年体制では保守勢力・革新勢力の2つの政党が対立する構図が続きました。

議会制民主主義の下で2つの大政党が政権を競い合う政治情勢を「二大政党制」と呼びます。しかし55年体制では実質的には自民党の一党優位制が続き、社会党の議席数は自民党の半数以下にとどまっていました。

そのため、「1と2分の1政党制」と呼ばれることがあります。

55年体制の終わり

自民党が一党支配で政権を担った55年体制は、約40年にもわたって続きました。しかし1993年非自民連立政権が発足したことをきっかけに、55年体制は終焉を迎えます。

非自民連立政権・細川内閣が発足

1993年7月の衆院選で自民党は大敗し、議席数は半数以下の211議席となりました。社会党も70議席と激減します。一方で議席数を伸ばしたのは、細川氏が党首を務めた日本新党や、自民党から分離した新生党、新党さきがけなどです。

自民党の宮澤喜一内閣は総辞職し、非自民連立政権である細川内閣が発足します。細川政権は、日本新党・社会党・新生党・公明党・民社党・新党さきがけ・社民連・民改連の8党派による連立内閣でした。

これによって、自民党は結党以来初めて野党となりました。55年体制が崩壊した背景には、自民党による一党支配体制下で相次いだ、ロッキード事件やリクルート事件など「政治とカネ」の問題があると指摘されます。

55年体制終焉後、連立政権の時代へ

細川内閣は小選挙区比例代表並立制の導入や政党助成法など政治改革関連法を成立させました。しかし連立与党の対立や首相の金銭疑惑により、8ヶ月で退陣します。次に発足した新生党などの連立内閣である羽田孜内閣も、わずか64日で総辞職となりました。

その後の村山富市内閣は、自民党・社会党・新党さきがけの連立政権です。連立によって、自民党は再び与党となりました。

首相は社会党党首の村山委員長で、55年体制で対立していた自民党と社会党が連立したことが世論の注目を集めました。その後自民党は公明党などと連立し、再び政権与党を担い続けます。

2009年に民主党と国民新党の連立政権である鳩山由紀夫内閣で政権交代となりましたが、2012年の第2次安倍晋三内閣で再度自民・公明の連立政権となり、現在に至ります。

政権交代については、以下の記事で詳しく解説しています。
政権交代とは?仕組みや過去の事例について

55年体制下の主な出来事と内閣総理大臣

55年体制が発足した鳩山一郎内閣から、最後の自民党単独政権となった宮澤喜一内閣までの首相と主な政治の動きを、以下にまとめました。

  • 鳩山一郎内閣(1954〜):日ソ国交回復、国連加盟
  • 石橋湛山内閣(1956〜):首相の病気により3ヶ月で総辞職。55年体制下で最短
  • 岸信介内閣(1957〜):日米安全保障条約の改定
  • 池田勇人内閣(1960〜):所得倍増計画・高度経済成長経済政策
  • 佐藤栄作内閣(1964〜):非核三原則を表明。安倍晋三内閣の8年8ヶ月(第1次、第2次合計)に次ぐ7年8ヶ月の最長内閣
  • 田中角栄内閣(1972〜):日中国交正常化
  • 三木武夫内閣(1974〜):ロッキード事件が表面化
  • 福田赳夫内閣(1976〜):日中平和友好条約締結
  • 大平正芳内閣(1978〜):衆参同時選挙期間中に倒れ、史上初の現職首相の死去
  • 鈴木善幸内閣(1980〜):参議院に比例代表制導入
  • 中曽根康弘内閣(1982〜):国鉄民営化などの行政改革推進
  • 竹下登内閣(1987〜):リクルート事件発覚、消費税(3%)導入
  • 宇野宗佑内閣(1989〜):参院選で自民党惨敗
  • 海部俊樹内閣(1989〜):自衛隊海外派遣問題
  • 宮澤喜一内閣(1991〜):PKO協力法成立、衆院選で大敗し野党に

まとめ

  • 55年体制とは、1955年に自民党発足と社会党の再統一によって生じた、保守政党と革新政党が対立する構図
  • 55年体制下では自民党が過半数の議席を占め、単独政権を保持していたことが特徴
  • 1993年に非自民連立政権の細川護煕内閣が発足し、55年体制は崩壊した

 

<参考>
『政治・経済用語集 第2版』山川出版社、2019
『2021新政治・経済資料 三訂版』実教出版編修部、2021
自民党の歴史 | 自民党について | 自由民主党
自由民主党結成 | 歴代総裁 | 党のあゆみ | 自民党について
【独立後の日本】55年体制がどういう体制かよくわかりません
今さら聞けない?! 「保守」「リベラル」ってなんだ? | 就活ニュースペーパーby朝日新聞 – 就職サイト あさがくナビ
緒方竹虎|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館
14章 55年体制の崩壊・連立の時代-ビジュアル年表(戦後70年):朝日新聞デジタル

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